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「ひみつジャナイギャラリー」山澤満さんインタビューvol.1

2020.01.06

「ひみつジャナイギャラリー」のストックギャラリーに倉庫を貸していただいている、酒屋の山澤商店の山澤満さんにインタビューをしました。

 

 

沖野あゆみ×山澤商店  

ストックギャラリー(応募されたアーティストの作品を展示)

㈴山澤商店 代表社員 山澤 満さん

 

地元である「松山市内の障がいのある方のアート作品を中心にスポットを当てる」という今回の道後アートのコンセプトを聞いて、山澤さんは「私が適任。うちにも一つか二つ作品を展示してほしい」という気持ちから、真っ先に設置候補場所として手を挙げました。

その理由を尋ねると、子ども時代の原体験を二つ話してくれました。

 

「叔父が生後、高熱が元で半身不随になった。祖父母は叔父に学問を付けさせようと大学院まで行かせたが、叔父に就職の口はなく、うちで働いていた。障がいがあるからといって世間から隠すことはしなかった」。

そしてもう一つは上人坂(しょうにんざか・旧称「ネオン坂」)に関わること。

かつてあった色街で働く人たちの子どもと山澤さんは友達でした。けれども周囲から「あそこの子と遊んではいけない」という雰囲気を感じて、違和感をもっていたと言います。

「子どもにとって友達はフラットな関係。個々の人間の付き合いができるような社会が望ましい」と理想の社会像を思い描くようになったそうです。

 

山澤さんはその原体験などから、青年会議所では福祉委員会に所属。

それだけでなく、障がいのある方と共生する社会を目指すNPOの設立と運営にも関わってきました。だから「ひみつジャナイギャラリー」の理念には即賛同、応募したと言います。

 

そして、監修の日比野克彦さんが山澤商店の倉庫を初めて見た時、日比野さんは「ここで全部展示したい」、配達に使う軽トラック、そしてシャッターも「これもいい?」と言いました。

山澤さんはそれがどういうことなのかピンと来なかったのですが、パース(立体図面)を見てびっくり。

応募してきた作品は全て展示する上、軽トラックはアーティストの絵でラッピングされていました。そこでハタと気付いたと言います。

「ただ作品を飾ればいい、という考えは違うのだ。僕が覚悟しないといけないし、覚悟をみんなに伝えることがこの事業の意義だ」と。

 

腹をくくった山澤さんは「山澤商店の倉庫でイベントをするのもOK。上人坂で縁日をするのも、全面的に協力します」と宣言しました。

そして、この事業が終わった後のことも見据えています。

「これをきっかけに、アーティストの作品を飾るという仕組みが、ここ道後に残って行けばいい。上人坂エリアは商店街とは違う魅力をもたせたい。例えばアーティストの工房的なものがあればいいのではないか」と夢を語ってくれました。

 

ひみつジャナイギャラリーの展示が2019年10月14日にスタートしてから約2カ月。道後に変化はあったのでしょうか。

 

山澤満さんは、成果の第一に、アーティストである障がいのある方が道後に来てくれたことを挙げました。

「家から出られなかったり、家と施設の往復が中心だった方が、道後に足を運んでくれた。そして自分の作品を見て、感動してくれる。これは本当にすごいこと」。

施設の関係者から聞いた話では、アーティストの中には自分の作品を見るために個人で道後に来たり、施設のレクリエーションで道後に来たついでに「私らのとこ、見て行こうか」とストックギャラリーに来ることもあるとか。

山澤さんの倉庫が「私らのとこ」と、公共空間の雰囲気を帯び始めたことが分かります。

 

また、山澤さんのご自宅でも変化は起きています。

私たちが取材をしていた時。帰宅したお子さんが私たちに道後アートのパンフレットを手渡そうとしてくれました。

「子どももこうして人との交流ができる。作品は毎日見るから、作品を話題にするうちに自然に自分のものになっていく。子どもの成長にとってもすごくいい」と山澤さん。

 

子ども時代の原体験から、誰も排除せず、分断しない社会が望ましいと考える山澤さん。

道後アートを監修する日比野克彦さんの「ひとりひとりのその人らしさを分かち合う場所」に共鳴しています。

そして、道後は元々そういう場所だったと言います。

「温泉では偉い人もそうでない人も富める人も貧しい人も、裸になったら一緒。道後には病や傷ついた方が客として来たり、戦後は戦争未亡人が働いたり、多様な人々を受け入れる素地があった」。

けれども現代社会では分断が問題になっています。だからこそ「一つの温泉にみんなが入っているような町になればいい」とキッパリ言い切ります。

 

続く・・・