フィギュアスケート界の絶対王者“羽生 結弦(はにゅう ゆづる)”さん。
羽生結弦さんの父親は校長先生をされていて、お母さんは美人なんだとか。
今回は『羽生結弦の家族について』紹介したいと思います。
羽生結弦の家族構成まとめ

羽生結弦さんの家族構成をまとめました。
- 父
- 母
- 姉
- 羽生結弦
詳しく見ていきましょう。
父親は中学校の校長先生

羽生結弦さんの、お父さんは“羽生 秀利(はにゅう ひでとし)”さんです。
中学校の校長先生をされていて、2021年からは宮城県の利府町立利府西中学校の校長を務められています。
教員時代には野球が好きで野球部の顧問をしていたそうです。
そんなお父さんと羽生結弦さんとの、野球がキーワードとなるエピソードを紹介します。
- 羽生結弦は野球好き
- 結弦という名前は父親が考えた
- 練習の送り迎えは父親
- 父親に言われ続けた言葉
羽生結弦は野球好き

羽生結弦さんはフィギュアスケートのイメージが強いですが、父親の影響もあり野球好きで、幼い頃には父親にはフィギュアスケートと、野球も進められていたようです。
ですが、羽生結弦さんはフィギュアスケートを選び成功を収める結果になりました。
ただ、フィギュアスケートが調子の悪い時には、野球への転向も視野に合ったようです。
結弦という名前は父親が考えた

羽生結弦さんの“結弦”という名前は、父の羽生秀利さんが考えたんだとか。
名前の由来は
弓を結ぶ弦のような凛とした人間になってほしい
と願いを込めたそうです。
ケガで苦しい時期に打ち勝てたのは、父親の願った凛とした人間でありたいと思ったからなのではないでしょうか。
練習の送り迎えは父親

幼い頃から羽生結弦さんの練習量は多く、熱中すると深夜の帰宅も多かったとのこと。
そんな羽生結弦さんの送り迎えをするのが、父親だったようです。
練習を陰ながら支え続けたのはまぎれもなく父の愛情の深さなのでしょう。
羽生選手は、子どものころからフィギュア漬けの毎日。練習に熱中するあまり、帰宅が深夜になることも。その彼をいつも車で迎えに行っていたのが秀利さんでした。
引用:女性自身
父親に言われ続けた言葉

羽生結弦さんは父親に何度も言われた言葉があったそうです。
「どんなにフィギュアの練習が大変だったとしても、勉強は続けなさい。将来は一流の選手である前に、一流の社会人になってほしい」
その言葉が胸にあったからこそ、私立大学の最高峰である早稲田大学を卒業できたのでしょう。
誰もが認める一流の社会人になられています。
母は美人で専業主婦

羽生結弦さんのお母さんは“羽生 由美(はにゅう ゆみ)”さん。
現在は専業主婦をされていて、過去にはスーパーの紳士服売り場とクリーニング店のパートの掛け持ちをしていたことも。
フィギュアスケートは衣装や靴、練習場とお金がかかるスポーツなので家計の負担を抑えるために頑張ってこられたことでしょう。
そんな、お母さんと羽生結弦さんとの、絶対王者と呼ばれるまでの支えとなったエピソードなど5つほど紹介します。
- あがり症の克服
- 食生活を改善した母
- 未来を予感していた母
- 恋愛禁止令
- お母さんに『ありがとう』
あがり症の克服

羽生結弦さんは幼少の頃は、メンタル面で弱く、本番直前には緊張で過呼吸の状態になるほどだったそうです。
そこで、お母さんは羽生結弦さんのあがり症を克服できるようにと“メンタルコントロール”を学んでいたんだとか。
そのおかげで、オリンピックなどの重圧にも耐えられるほどのメンタルの強さを手に入れる事ができたのでしょう。
食生活を改善した母

羽生結弦さんがソチ五輪や世界選手権に最高のコンディションで挑めたのは食生活を改善したお母さんのおかげだったようです。
それは2012年に羽生結弦さんはお母さんとともにコーチ、ブライアン・オーサー氏のいるカナダへと渡りました。
しかし、大ぶりのステーキや、鹿肉などのジビエ料理といった北米の食事が羽生結弦さんの口に合わずコンディションを崩していったそうです。
そこでお母さんが、本格的な食生活の改善を決意、専門家にも相談し、出来上がったのが、手軽に作れて材料も集めやすい野菜たっぷりのひとり鍋でした。
未来を予感していた母

羽生結弦さんが9歳のとき、“家族会議”が開かれたとのこと。
その会議で、経済的な理由からか、父親は羽生結弦さんがフィギュアスケートを続けることに反対したそうです。
でも由美さんは『結弦は将来必ず世界に羽ばたく子だから』と必死に訴えたんだとか。
練習の様子などをみていたお母さんには、羽生結弦さんの現在を予感させる未来の姿がみえていたのかもしれません。
恋愛禁止令

羽生結弦さんは過去に女性選手との恋の噂がありました。
その噂で『ユヅは若いので恋の噂が立つだけで振り回されてしまう』といって、お母さんやコーチが“恋愛は絶対ダメ”と口を酸っぱくして言い聞かせたとのこと。
いわれのない陰口を叩かれてしまうと、メンタルの弱い羽生結弦さんは調子を崩しかねません。
そこで、“恋愛禁止令”がだされたようで、羽生結弦さんはこれまで以上にスケートに打ち込んでいたんだとか。
お母さんに『ありがとう』

羽生結弦さんが、“ISUグランプリファイナル”で3連覇を達成したときのことです。
宿泊先のホテルでお母さんに『ありがとう』と言って首に金メダルをかけてあげたんだとか。
羽生結弦さんは感謝と尊敬を込めてお母さんのことを“もうひとりのコーチ”とも言っています。
姉のさやとの仲良しエピも

羽生結弦さんのお姉さんは“羽生 沙耶(はにゅう さや)”さん。
現在は、羽生結弦さんのホームグラウンドでもある“アイスリンク仙台”の職員をされているようです。
羽生結弦さんが、フィギュアスケートをするきっかけとなったともいわれています。
そんなお姉さんと、羽生結弦さんとのエピソードがこちらです。
- 羽生結弦がフィギュアスケートを始めたきっかけは姉
- 姉が初めてのライバルだった
- 弟のために、姉があきらめたフィギュアスケート
- 姉が見本だったダブルアクセル
羽生結弦がフィギュアスケートを始めたきっかけは姉

羽生結弦さんがフィギュアスケートを始めるきっかけはお姉さんでした。
それは、羽生結弦さんがまだ4歳だった頃お姉さんがスケート教室に通っていて、そのついでに滑ってみたとのこと。
当時は、こけて滑ることが楽しかったんだとか。
今の方が高いジャンプを飛ばなくちゃいけないんで痛く感じる時はあるんですけど。あのころはこけるのが楽しくてしょうがなかったです。やっぱりつるつるしてるんで、滑ってていいなあみたいな感じでしたね。
引用:朝日新聞デジタル
姉が初めてのライバルだった

羽生結弦さんは4歳でフィギュアスケートを始めたのですが、練習量の多さから“練習に行きたくない”といったこともあったようです。
そんな時、お姉さんの姿をみて『姉ちゃんがやるならおれもやる』と自らを奮い立たせていたんだとか。
お姉さんは、羽生結弦さんの初めてのライバル関係にあったのでしょう。
弟のために、姉があきらめたフィギュアスケート

羽生結弦さんのお姉さんは、フィギュアスケートを10年間していたとのこと。
ですが、経済的な理由からか
結弦が辞めるくらいなら、自分が辞める
といって、弟を支える側にまわり、ジャンプなど技術的なところをアドバイスしていたようです。
姉が見本だったダブルアクセル

羽生結弦さんが小学3年生の時にはダブルアクセルを飛べていたようです。
「アクセル」は、フィギュアスケートに6種類あるジャンプの中の1つのジャンプ。
空中で1回転するアクセルを「シングルアクセル」、2回転を「ダブルアクセル」、3回転を「トリプルアクセル」と言います。
前向きに踏み切り、後ろ向き着氷のため他のジャンプより半回転多く回らなければならずその難易度は最も高い
当時高校生だったお姉さんのダブルアクセルを見て飛べるようになったんだとか。
お姉さんの存在はライバルであり、先導者でもあったようです。
まとめ
今回は『羽生結弦の家族について』紹介しました。
今の羽生結弦さんがあるのは、家族の協力があったからこその結果だったのでしょう。
今後もさらなる活躍が期待できるの羽生結弦さんからは目が離せません。
コメント